昭和41年02月09日 朝の御理解



 信心を頂いておるということは、そこから、有難いと感じさせて頂くおかげを頂きたい。ほんとに、信心を頂いておるということが、まあ、いうならば、椛目にご縁を頂いておるということが、こうして日々信心の稽古をさせて頂いておるということが、本当に有り難いというおかげを頂かせてもらわなければならない。
 ただ、御願いをする、一つのことが成就すると、そういうようなことが有り難いというのでは、願いが、願い通りにならず、右と願って左となるといったようなことにでもなると、もう、それが、実を言うたら、その、神ながらなおかげを頂いておるのでございますけれども、人間、凡夫の事でございますから、ね。
 その、有難さ、神様はいう事を聞いて下さらなかったような、いわゆる、気持ちになるのでございます。ですから、そういう意味合いでおかげを頂くことが、有難いというのではなくてです。ね。しみじみと、信心の稽古をさせて頂いておることが有難いと。私は、そのためには、どうしても、実意丁寧神信心が出来なければ駄目だと。ね。実意丁寧な、その、実意丁寧神信心が出来ませんと、心の中にです、神様と私共。
 昨日、私、夕べの御祈念のときに、青年部の方たちに、まあ、言うなら、「神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ない」と、言うような意味合いの御理解を頂いておりました。それで、色々と、その角度から、お話させて頂いたんですけれども、その御理解を頂きながら、あの、妹が頂いておることです。この、山脈の脈という字ですね。脈という字をいく字も、こうやって頂いておる。
 いわゆる脈脈ということ。いわゆる、神様と私共の間にです。ほんとに、脈々としてつたう、伝わるもの、ね。いわば、血が通うておるように、交流するもの、そういうものが、頂けることのためにもです。昨日の朝の御祈念に、角さんは毎日まいって見えますから、ただ、二度目のお参り、昨日は、三度参っておられます、青年会と。それで、二度目のお参りのときでした。
 「先生あの、神ながら、神ながらという言葉を、よく使われるのですけれども、本当の神ながらということは、どういうことでしょうか」と、「そらまた、難しい、簡単なことであって、大変難しいこと、ちょっと、一時、二時で、話せることでもないと思うんだけれど、まあ、今晩の青年部会にでも、その事を、まあ、一つのテーマにして、皆さんまあ、研究なさったらどうですか」と、言うて話たことです。
 神ながらなおかげとこういう。ならその、神ながらなおかげというのは、実感を持ってです。はあ、これこそ、神ながらなおかげだと感じなければ、言うたって駄目なんです。私ば、見よんなさい。私のおかげは、もう、神ながらじゃろが。これが神ながらたい、というただけじゃ分からん。為には、やはり、神ながらな道を歩かなければ、神ながらなおかげは受けられんということ
 。神ながらな道というのは、教祖の神様が教えてくださった、その教えの道というか、天地に繋がることの出来れる道というものを、私共が聞いて、それを、行じていかなければ、はあ、神ながらなおかげとは、こういうようなものだと、言うことになってこなければ分からんのです、実際。というようなことでございましたんですね。脈々として、神様と、私共が、通うという事。
 昨日、一昨日、久保山先生ところの、和子さんが、宅祭りのために、わざわざ、東京から帰ってきております。要するに、あちらの娘さんの、式年祭も、御霊様のございますから、あの、あちらが代表して帰ってきてるわけなんですけれども、時にその、毎月送ってもらうあの、御芝居の本を一緒に託ってきてたんです。
 それを、昨日、私、見せて頂いておりましたら、先日からも、ちょっとお話しましたあの、尾上梅光と、勘九郎の(重野井小若?)のお芝居の劇評ですね、が、その、書いてございますのを、その、見せてもらったんですけれども、なるほど、私が、思うとったようなことが書いてあるんですね。もう、本当に、名優といわれる梅光が、反対に、食われておるような感じだったですもんね。だから、梅光の重野井には、もう、ま、難が無かったというだけなんです。
 ところがその、勘九郎の、孫のいわゆる、孫の三吉を演じておるわけですけれども、もう、べた褒めに書いてあるですね。兎に角、まあ、五つぐらいから、その、馬を追って、そして、十一、ニになっておるわけですね、三吉が。その、ですから、やはり、もう、生活の知恵というものが、段々出けて、もう、たった、十一、ニであるけれども、その、ませた子供であるということ。
 それでもやはり、年は、十一、ニだから、所々には無邪気なところもあるという、その無邪気と、その、ませたところを、もう、実に見事にやり分けておるという事を書いてあります。ね。そして、その、憂(うれ)いのところは、もう、自分がもう、まるきり泣いておるような表情やら、声色やら、憂いのあるセリフを使うというわけです。もう、態度といい、舞台度胸といい、その、所作といいです。もう、実に見事。よくもよくも、あれだけ教えもした、また、覚えもしたという事を書いてございます。
 最後にですね、勘九郎は、あの役の中にです、もう、完全に自己陶酔に入っておるという事を書いてございます。もう、自分が、孫の三吉になりきって、もう、楽しゅうて、愉快でその、やることが応えんというような、やり方をしておるということが書いてあります。これはもう、非常に、この劇評というのは、厳しく、どんなに名優であろうが、悪いところは悪いと書くのが劇評なんですね。
 それに、その名優といわれるその、梅光の重野井も、まあ、まあまあ良かったと、こう、難はなかったとこういう風に書いてあるんです。ところが、その、子供の子役の勘九郎の方のほうは、そういう沢山の言葉を使って、もう、褒めようがないというような言葉を使って、評してあります。
 それは、皆さんその、どういうようなことだと思うのですか。今日、私が申しております、信心させて頂いておるというのがです。ほんとに有難いと。ただ、御願いしとったらおかげ頂いたと、ほんに神様とは、信心ちゃ、有難いこっじゃあるのうやというようなもんじゃないです。ね。信心の稽古をさせて頂いて、日々こう、通わせて頂いておるということがです。その事が有難いと。
 いわゆる、自己陶酔に入られるくらいのおかげを頂かねばならんためにはです。いわゆる、勘九郎が、三吉になりきっておるようにです。私共が、本当に、お道の信者になりきらなければ、自己陶酔に入られんということ。御道の信心を頂いておりましても、ね。させては頂いておるけれども、御道の、いわば、教えを基にしたところの生活が出来てない。それでは、私は、有難いといったようなものは、いわゆる、脈々として通うようなものは生まれてこないと思うのです。ね。ようも、教えも教えた、覚えも覚えたと。私は、こういうようなおかげを頂きたいと思うですねえ。
 昨日、夜の御祈念に、原さんがお参りなってから、お届けなんです。もう、本当に、親先生が何時も仰るように、もう、朝の御理解を行じるということ、朝の御教えを、本気でその日に、その事を行じさせて頂くということが、こんなに、心の中に有難いものが通うてくるということを、何時も体験させて頂きますけれども。
 今日も、実は、昨日の朝の、実意丁寧神信心ということについてのです。その事を本当に、御理解を頂けば頂くほど、目の粗いのには驚きます。昨日も、御神飯を下げさせて頂いて、何時も、御神飯器をこう、お水で別にこう洗うんですね。けれども、自分達の茶碗な、いつも磨き粉かけてから洗うのにです。御神飯器は、磨き粉付けて洗うことも無い、ほんとに実意が無いことだと、新しい磨き粉を出して、その、御心飯器を洗わせて頂いておったということ。そしたら、もう、兎に角、先生、どうにも出来んほどの喜びがです。感激がです。
 いわゆるそれこそ、脈々として、自分の心の中に通うて来たと、こういわれるんです。私は、信心とは、それだと思うんですよ。自分で有難くなりたいと思うて、有難くなれるのじゃないです。ね。ほんとに、実意な、そのあり方がです、信心で、ちょっとした事にでも現されるときに、そこに、私は、神様と、通うようなものを感じることが出来るのです。ね。ですから、ほんとに、御道の信者になりきらなければいけんのです。ね。生活の中に、その教えと生活が両立しておる。
 一つになっていない。これでは、私は、信心を頂いておるということの喜びとか、有難さというようなものを、しみじみとです、感じることは出来ないと。私は先月から、その教えを、何時も心の中に、それこそ、その教えを思うただけで、神様と脈々と通うような感じを日々頂いておるのですけれども、事のあるたんびに、その、何かの、何かの、まあ、一つのささやかな、まあ、難儀とでもいおうかね、まあ、いらいらするようなことがあったり、腹がたったら、その時です。
 そういう時に、一人秘かに信心せよと仰った、あの一言がです、そういうときほど、一人秘かに、じっと心を神様に打ち向けさせて頂くということがです、その事を行じる事によってです。私の心の中に神様を、絶えず感じることが出来る。本当に、信心を頂いておるということが、有難いという事を感じることが出来るです。ね。皆さん、どうぞ、信心を頂いておるということが、なら、有難いと、ね。
 しみじみと心の底から感じられるおかげを頂くためにも、ね。一つ、本気で、教えを頂かねばいけません。今日はあの、幾ら言うて聞かせても分からんとにゃ、きじん草を縛りこめと頂きました。ね。こうやって聞いとるけれども、いっちょん御理解が耳に入らん。ね。御理解聞いとるだけ、ね。あのう、きじんすると言うのは、この、中耳炎、耳の病に一切良いといわれておるですねえ。
 けども、きじん草を絞り込まれてから、穴がほげたっじゃいかんでしょうが。きじん草ということは、もう、叩いてからでも分からせようといったような意味じゃないかとこう思うんですね。きじん草を絞り込んでからでも、しゃんとさせよと。ほんとに、折角、通うて来ておるのだから。信心頂いておるということが、有難いということがです。しみじみ、分からせてもらう、感じさせて貰う、このことを、頼まんならんけん、おかげ頂かんならんから、お参りして来とるというところから、ね。
 信心の稽古をさせて頂いておる、信心の稽古に通うておるということが、有難いということの、おかげを頂くために、ね。本気で、私共が、教えを行じさせて頂く、そこからです、いわゆる勘九郎じゃないけれども、その役になりきる。御道の信者になりきらせて貰う。そこから、私は自己陶酔。教えに、教えを行じさせて頂いておる、神様と通うておるその、喜びがです。もう、本当に酔うたように、ね。陶酔境に入っていくことが出来ると、こう思うのですね。どうぞ、本気で、きじん草を絞り込まれる前に本気でその事を、分からせて頂かねばいけんと思うですね。
   どうぞ。